藤井達吉紹介

藤井達吉

藤井達吉は小原和紙の質の良さに目をつけ、その素材を生かしながらも単なる紙づくりに終わらず、美術品の域にまで高めた人物。小原和紙工芸の創始者として多くの継承者を生んでおり、屏風や掛軸等の作品は見る者の心を奪うほどの素晴しさです。

藤井達吉の生涯

藤井達吉は、愛知県が生んだ偉大な芸術家です。明治から昭和にかけ、日本画を始め、陶芸.七宝・金工・竹工・紙工・漆工・刺繍・染色・書・和歌など工芸のあらゆる分野で活躍し、優れた作品を多く残しています。

達吉は、明治14年(1881)6月6目、愛知県碧海郡棚尾村字源氏43(現碧南市)に父忠三郎・母かぎの三男として生まれました。
小学校卒業後すぐに木綿間屋の奉公に出、金を扱う仕事に従事し、金工の技術を身につけました。5年ほどして七宝店に移り、そこでは七宝の技術を身につけたばかりでなく、仕事上つながりの深かった瀬戸陶芸や外国の美術作品との出合いなどがありました。

そして、24才の時七宝店を退社、上京し美術工芸の道を歩みはじめました。上京後しばらくは困窮の生活が続きましたが、バーナード・リーチ、高村光太郎ら多くの芸術家と交流するようになり、達吉の異才は認められるところとなり、「フユウザン会」や「国民美術協会」の創設にも参加しました。

大正から昭和にかけては、家庭工芸(手芸)の普及や工芸の地位向上のために奔走しましたが様々な誤解が生じ、昭和6年(1931)一切の美術工芸団体を退き、伝統工芸の調査と復活の旅に出ました。郷里愛知の瀬戸、常滑及び多治見方面の古窯の調査をはじめ、地場産業や伝統工芸の振興に力を入れました。

こうした活動の中に、昭和7年(1932)の小原和紙との出合いがありました。紙漉きたちに美術工芸紙の指導を始めたのです。昭和20年(1945)戦況が悪化したのを期に小原村に疎開し、本格的に工芸紙の指導を始めました。昭和25年(1950)小原村を引き上げ、生まれ故郷の碧南市に移り、その後も静岡県沼津市・岡崎市・神奈川県湯河原町など各地を転々としますが、地場産業の発展にかける情熱は少しも衰えることはありませんでした。

達吉は師も弟子もなく、生涯独身ですごし一切の妥協を排し、名利に悟淡として一所不在の生活をおくり、「孤高の芸術家」といわれました。
多くの苦悩を超え、自然の教えに帰依し、昭和39年(1964)8月27目岡崎市民病院で心臓麻庫により逝去されました。享年83才。

藤井達吉の芸術観

藤井達吉の創作は、日本画・油彩画・刺繍・染色・陶芸・漆芸・七宝・金工・木工・竹工・紙芸・書・歌など、美術工芸の多くの分野に及んでいる。

美術学校にも行けず、独学で芸術の道を歩んだ達吉に美を教えたものは、「自然」であった。草花の無駄の無い美しさに美の本質を見つけ、そこから芸術を学んだ。路傍の雑草一本にも心を使い、庭は手入れをせず、自由奔放に育った雑草と四季の移り変りの美を大切にするのである。「自然を見つめる。言い換えれぱ自然を愛すること。そして自然に教えられることが芸術の第一歩ではなかろうか。」「写生から出発し、写生を超越して創造に行くのが芸術である。」と言っているように、根底にあるものは「自然を観察せよ。」の信念であり、全てここから出発している。このことは、達吉の多くの作品の基となっているデザインを見れば一目瞭然である。

工芸については、「工芸とは本来、絵画・彫刻・及び工芸全般を包合し、総合的に作られてこそ一つの作品となるもので、その内一つでも欠けることは許されない。」、「工芸においては、絵画も一義、図案も一義、素材も一義、枝術も一義であり、全てが整って初めて一つの作品となる。つまり、工芸は全ての芸術的要素を含んだ総合芸術である。」と位置付けている。そして、「旧来、工芸品は数人の分割された職人の手仕事によって作られており、作り手の作意は表に出さなかったが、これでは本当の芸術とは言えない。一つの作品の、図案から制作までを一人でおこない、作者の人間性を表現して初めて芸術作品と言える。」と言っている。

芸術については、「芸術作品は、作者の人間性、全人格が優劣を決めるのであって、技術ではない。」、「最後は『人格』に帰する。何をしてもこの『人格』の表現だ。」と言っているように、人格の大切さを唱えている。
そして、芸術を行なう理由として「より人間らしく生き、人間らしく生きるために芸術をおこなうのである。」と言っている。

達吉の言う「人間らしさ」とは、常に向上することである。つまり、咋日より今日、今日より明日の自分の方が進歩していて、死ぬときが最高の自分であることを求めつづけるという意味であろう。それは、人が人を、自然を愛し、慈しみ、感謝し、心豊かに生活することと言えよう。
友人に当てた書簡につぎの言葉がある。

芸術とは何ぞや宗教なり 
宗教とは何ぞや真実なり 
真実とは何ぞや愛なり 
愛とは何ぞや芸術なり

藤井達吉の創作は、日本画・油彩画・刺繍・染色・陶芸・漆芸・七宝・金工・木工・竹工・紙芸・書・歌など、多くの分野に及んでいる。
美術学校にも行けず、独学で芸術の道を歩んだ達吉に美を教えたものは、「自然」であった。
草花の無駄の無い美しさに美の本質を見つけ、そこから芸術を学んだ。  

達吉の言葉より

  • 自然と芸術の関係について
  • 「自然を見つめる。言い換えれぱ自然を愛すること。そして自然に教えられることが芸術の第一歩ではなかろうか。」
  • 「写生から出発し、写生を超越して創造に行くのが芸術である。」
  • 「自然を観察せよ。」
  • 工芸について
  • 「工芸とは本来、絵画・彫刻・及び工芸全般を包合し、総合的に作られてこそ一つの作品となるもので、その内一つでも欠けることは許されない。」
  • 「工芸においては、絵画も一義、図案も一義、素材も一義、枝術も一義であり、全てが整って初めて一つの作品となる。 つまり、工芸は全ての芸術的要素を含んだ総合芸術である。」
  • 「旧来、工芸品は数人の分割された職人の手仕事によって作られており、作り手の作意は表に出さなかったが、これでは本当の芸術とは言えない。一つの作品の、図案から制作までを一人でおこない、作者の人間性を表現して初めて芸術作品と言える。」
  • 芸術について
  • 「芸術作品は、作者の人間性、全人格が優劣を決めるのであって、技術ではない。」
  • 「最後は『人格』に帰する。何をしてもこの『人格』の表現だ。」
  • 芸術を行なう理由として
  • 「より人間らしく生き、人間らしく生きるために芸術をおこなうのである。」
  • 「咋日より今日、今日より明日の自分の方が進歩していて、死ぬときが最高の自分であることを求めつづける」
  • 「人が人を、自然を愛し、慈しみ、感謝し、心豊かに生活することと」
  • 友人に当てた書簡につぎの言葉がある。
  • 「芸術とは何ぞや宗教なり 宗教とは何ぞや真実なり 真実とは何ぞや愛なり 愛とは何ぞや芸術なり」

継色紙と継紙

継鰍とは、平安時代後期に作られた、小野道風筆と伝えられる、粘葉装の冊子本の断簡である。見開きの左右に色の違う鳥の子紙を使い、2頁に渡って歌一首を散らしている。
継紙とは・種類や色の違う紙を、切毒陸継、重継、破継などの技法を使い、糊で継ぎ合せて色や形の変化の美しさを求めた、書写の料紙である。西本願寺本三十六人集がその代表である。

藤井達吉の継色紙は、どちらかというと継紙に近く、紙のみならず布や螺鈿なども材料として使い、それらを自由奔放に継ぎ合せ、絵の具で着色し、歌を散らす一種のコラージュである。
平安時代に幾人もの手を経て作り上げられたものを、達吉は一人で成し遂げた。

失われてしまった伝統技術の復活を試み、その上に独自性を加えた創作は、素材・歌・書・絵画・工芸が一体となった総合芸術である。

継色紙と継紙

藤井達吉は、当初和紙原料のコウゾを染めたものを筆に付け、絵の具代わりにしようとしたようである。
試行錯誤をかさね、油紙を型紙として使い、そこへ染色したコウゾを流し込み図柄を描く方法が考案された。現在ではさらに工夫され、より芸術的な作品へと発展している。

  

  • 開館時間
    午前9時~午後4時30分
  • 休館日
    月曜日(月曜日が祝日等の場合は開館します。 振り替え休館は ありません。)年末年始(12月28日~1月4日)
  • 駐車場
    150台(無料)